株式会社 森の風工房|青森の工務店。森の風のさわやかさを感じる家族思いの家づくり

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「ダメダメだった私が、お客さんから頂いた”ありがとう”の一言から、家づくりに真剣に取り組むようになりました。」

1. 作業場と現場が私の遊び場

小さな工務店の長男として生まれた私は、作業場で大工さんが木を加工する金槌の音や木を削る機械の音を聞きながら育ちました。 作業場は小さい頃の遊び場でもありました。
作業場の壁に野球のボールを投げてみたり、大工さんが使うノコギリで木を切る真似をしたり、釘を打ってみたりと、いつもそんなことをして遊んでいました。

遊んでいる私の横では大工さんが一生懸命に家づくりの準備をしていました。
それを見ながら、「どんな家が出来るのかなぁ?」といつも思っていました。

小学校に入ってからも休みの日には家づくりの現場によく行きました。
頭にタオルを巻いた父の運転するトラックの助手席に乗って行ったのです。
父や大工さんが仕事をする光景に、幼いながらも、家づくりにかける思いを肌に感じていました。

2. かっこ良く見えたテレビCMに憧れて

中学卒業後は地元の工業高校・建築科に進学、卒業したら工務店の家業を継ぐものと思っていたので気ままに高校生活を楽しんでいました。そして就職。
その当時のテレビCMで、「昼間のパパは~。」とか「地図に残る仕事!」というような台詞と共に、工事現場が舞台になっているテレビCMがとても格好良く見えたので、「東京に行けばテレビCMのような格好良い仕事が出来るな!」そんなことを頭に浮かべて東京のゼネコン会社に就職する事にしました。

しかし、就職していざ現場に出てみると、テレビCMのような格好良いものは何もありませんでした。 朝は5時に起きて、工事現場まで片道1時間半位の通勤、そして夜の9時頃に寮に帰るという生活でした。新人が現場の即戦力になれるはずもありません。毎日がほとんど現場掃除と後片付けという日が続きました。
自分の気持ちの中で、「何か違う、何かが違う」という思いが心の隅っこにいつもあったのですが、現場には東北の出身者の方や同じ青森県出身の職人さんもいて、まだまだ子供だった私は結構可愛がられ、愚痴を聞いてもらったりしながら楽しく仕事をしていました。

そのゼネコン会社には約5年間勤めましたが5年目の年に体調を崩してしまい、1か月半入院する事になってしまいました。故郷から遠く離れた病院で一人過ごすベッド生活はとても寂しくて、退院後は地元に帰ることに決めました。傷心の帰郷です。

3. プー太郎生活

地元に帰ってきてからは父の紹介で設計事務所に勤めました。
しかし、何の目標も無いままに勤めた設計事務所での仕事は、面白くも無ければ、楽しくもありません。結局1年半ほどで辞めてしまいました。

「大工さんや協力業者さんも昔から知っている人も多いし、和気あいあい、みんなで協力していけば、仕事をしたお客さんから紹介がもらえて楽しい家づくりが出来るな。」自分に都合の良い、勝手な理由を付けての退社でした。
辞めても何とかなると思っていたのです。

しかし、そんなに現実は甘いものではありません。
今思い返しても恥ずかしい自分がいました。「現場は大工さんが考えて納めていくものだ!」という、私の非常に悪い考え。
「息子だぞ!」という、私の非常に悪い態度。
そして新たに取り組み始めた「高断熱高気密住宅」づくりの一番大事な技術や考え方を大工さんまかせにした、私の非常に悪い態度。
本当は、私自身が一番変わらなければいけないのに、他人の考え方や取組み方を変えようとしていた世間知らずの私がいました。

「何だんず。むかつくなぁ。」と思いながら過ごしているうちに、大工さんとの距離は広がり、職人気質の父との関係も悪くなり、父と話をする事も全く無くなっていました。
私の態度が悪かったので当然の結果です。

そんなギクシャクした雰囲気に良いことは何もありません。
会社の受注が徐々に徐々に少なくなっていきました。

4. 怠惰で無気力な日々

「やってらいねぇ~じゃ。」という気持ちが先行し新しい職場を探すためのハローワーク通いが日課となりました。
しかし、本気で仕事をする気がなかった私には、ハローワークに通うのも1日の時間潰しのようなものでした。
怠惰でやる気のない日々を過ごしていたのです。

「とりあえず、なんとかなるべぇ。」といった甘い考えがドンドン、ドンドン大きくなっていきました。
そんな考えは生活態度にも表れ、父との関係は更に悪化してしまい、簡単に修復する事ができませんでした。
仕事の話をしてもお互いに責任のなすり合い、ささいな事での怒鳴り合いでは納得する答えが出るはずもありませんでした。
全て私の態度が悪かったのが原因だったのです。

私は結婚もして子供もいました。
家族を養っていかなければいけない私でしたが…。

5. 母の涙

そんなある日、事務所で一人こそこそと仕事をしているところに母が入ってきました。
私は知らんぷりしてノートを見ていると、母は私の後ろに回って、突然私の背中を数回叩きました。
「何やっ!」と苛立ちながら後ろを振り向くと、母は涙を浮かべて立っていました。
私は言葉が詰まりました。そして母は、何も言わずに部屋から出ていきました。
私は部屋を出て行く母の姿をただ黙って見つめていました。

「まずいなぁ。」という気持ちが心の底から湧いてきました。

同時に妻と子供に対する罪悪感も湧いてきました。
「明るい、笑顔があふれる家庭。」を目標にしていたはずなのに…。
「妻や子供にも辛い思いをさせているなぁ。」

情けない気持ちが頭の中を駆け巡りました。

「何とかしなければいけない、このままではいけない。」
はじめて真剣にそう思いました。

6. 研修会での出会い

しかし、物凄く反省をしても何をどうしたら良いのか分かりませんでした。
そんな時です。私も会員になって「高断熱高気密住宅」の勉強をしている団体の全国大会が岩手県盛岡市で開催されました。
私は、「参加すれば何か良いヒントがあるかも…。」
そんな気持ちでその全国大会に参加しましたがそこでも得られませんでした。
今思えば何かを見つけるだけの力が自分になかったのです。

「あ~あっ。結局はこうだよなぁ~。」と半分は自分に失望しながら翌日も会場にいました。

そして翌日、「そろそろ電車の時間だし、帰るがなぁ~。」と思い会場の外に出て入口の階段に腰を掛けていたら、同じ会場にいた人に声を掛けられました。その頃はまだ挨拶をする程度のお付き合いの人でした。

当時の私は、この団体が主催する勉強会や地域の研修会に出ることが面倒で面倒でほとんど参加していませんでした。
「子供がまだ小さいから今回は遠慮します。」
「難しくてよく分からないから…。」
「真似をして家を造っていれば大丈夫でしょ!」
そんな理由を並べていたのですが、おそらく私の心の中はバレバレだったと思います。

「何だべなぁ~、面倒臭いのはお断り!」と思いながらその方(以下Aさんと呼びます)と次のような話をしたことを憶えています。

Aさん:「淳チャン、今回の総会どうだった?」
私:「…。他の人と話をする事がありませんでした。」
(「つまらなかったです。」と言いそうになってしまいました。)
Aさん:「そりゃ、そうだ。誰も淳チャンの事は知らないし、声かけてくれる人いないからね。」「○○君とも、話さなかったべ?」
私:「はい…。」
Aさん:「ところで今回は、大学の先生の話をまる1日聞いたり、住宅の発表会では、淳チャンと同じ様な工務店の人が発表する話を聞いたり、こんな研修会って他には無いよね。それに、自分の失敗事例をわざわざ発表して参考にして欲しいなんて、こんな研修会を淳チャンはどう思う?」 私:「(心の中で、ふ~んッ)」
すかさず(私の心を見透かしたように)、
Aさん:「子供が小さくて奥さんが大変なのは分かるけど、子供は勝手に成長するし、第一に淳チャンが楽しそうに仕事をしないとダメだと思うよ。これからも色んな場所で研修会があるから、とにかく俺の後ろを付いて歩いてね。分かった?」
私:「はい…。」
Aさん:「そうそう、今度北海道の会員さんの超高断熱住宅を見学することにしたから淳チャンも参加でOKね。」
私:「家に帰って相談してから…。」
Aさん:「ダメダメそんなことを言っていては。北海道の超高断熱住宅を見て一緒に勉強するべ。」
Aさんは本気でした。本気でそう言ってくれているのがわかりました。

7. 北海道の研修会で

私はAさんについて行きました。結果がどうあってもついて行こうと思ったのです。

北海道研修で見学した工務店の方々の、高断熱住宅に対する情熱や信念、自信を持って家づくりに向かっている姿をみて正直驚きました。断熱や気密工事のひとつひとつを説明してくれる言葉には、家を何か大切なものに作り上げて行くという気持ちが表れていました。しかもその先にすごく楽しいものが待っているかのように生き生きと話すのです。私は、それを聞いているうち、次第次第に「よし、俺も頑張ろう!」という気持ちになりました。話を聞いている内に心がわくわくしてきて回りが明るく見えてきたのです。

あの時のAさんのかけてくれた言葉がなければ今の自分はなかったと思います。Aさんには今でも本当に感謝しています。

8. 人生で初めてもらった感謝の言葉

それから少しの間、自分の勉強のつもりで、ある会社の仕事を手伝っていました。勿論高断熱住宅です。
そして、私は自分の人生を変えるきっかけになったあるお客さんに出会いました。

その人はご両親と同居するのをきっかけに、当初は暖かい新築住宅への建て替えを希望されていましたが、資金計画の段階で新築ではなく既存住宅の全面改修工事になりました。
改修工事でも暖かい住宅にする事が可能だという事を知っていたので、その事を丁寧に説明し、契約となりました。
その契約の日は、例年よりも雪が多い12月24日でした。
今でも、はっきりと覚えています。

雪が解けてから、本格的に工事を開始しました。
難しい仕事でしたが、夢中になって、とにかく現場に集中しました。
そして、工事が完了し引渡の日です。
そのお客さんから言われた言葉が今でも心に残っています。

「今日までは毎週のように顔を合わせて話をしていたけれど、これからはそれがなくなると思うととても残念で淋しい気がします。今まで本当にありがとうございました。」

私は人にお礼を言われ感謝されたのは人生で初めてでした。とても嬉しかったです。

この現場は全面改修工事で、正直とても難しい現場でしたが、うまくできたと思っています。私自身最大限、真正面から真剣に取組みました。「ありがとう」という言葉は、だからこそ、私の心にしみました。心からうれしく思いました。

そしてこの時、自分がこれから行く道をはっきり見たのです。
人に喜ばれる家をつくればいいのだと。

その年の冬、その住宅を訪ねると、「今まで暮らしていた家とは全然違う!」という言葉をいただきました。
予想していたとはいえお客さんの笑顔が格別なものに見えました。

その後も、家づくりをお手伝いした皆さんから、「冬、暖かくていいね。」と言われるのですが、私はそのとき気付きました。

高断熱住宅に専念している工務店の先輩が楽しそうに仕事しているのは、私が頂いたような感謝の言葉をたくさん頂いている。だから、自社が取り組んだ事や、今現場で取り組んでいる事、そして、失敗した事例も隠す事なく堂々と発表する事が出来るのだ。 そして、その先輩方の成功事例や失敗事例を聞いて家づくりをしている私は、先輩方の技術と一緒に、今まで先輩がお客さんから頂いた感謝の言葉も分けてもらっているのだと。

9. 高断熱住宅こそが本当の家づくり

私は、高断熱住宅こそが本当の家づくりだと思っています。
青森の冬はとても寒く、長く、厳しい冬です。ここで快適に暮らすためには、住環境がとっても大切だと思います。
冬、暖かく暮らせること、それには高断熱住宅が絶対必要です。

面白い話があります。
私の実家は築30年ぐらいになります。
冬が近づいて外が寒くなると家の中も一緒に寒くなります。
ある冬の日、子供を連れて実家に行ったときのこと、子供たちはいつものように家中を走り回って遊ぶのですが、父母が元気に走りまわる孫を怒鳴って遊ぶのをやめさせたのです。ふすまや戸を開けておくと寒いからです。
私の子供達は「高断熱高気密住宅」で暮らしているので、戸を開けて遊んでいて叱られ理由が分かりません。その時もポカ~ンとしていました。笑ってしまいます。

寒い地方では、家が寒いために損をすることがたくさんあると思います。
家族の愉しみ、ときには団欒までも、寒さに奪われることがあります。寒い地方の家はまず第一に暖かく暮らせることが重要だと考えています。

そしてもう一つ、高断熱住宅こそが本当の家づくりだと私が確信した出来事があります。
東日本大震災です。

平成23年3月11日の東日本大震災は、まだ雪が降る寒い時期でした。地震発生直後の午後2時46分から、青森県内でも約1日の停電が発生しました。雪も降る時期でしたので、暖房は必要でした。その夜は気温が氷点下になり、凍える様な思いをした方も少なくないはずです。

あの時は、日頃高断熱住宅と自慢していた住宅でも寒くなった家は沢山ありました。それまで暖かかったのは暖房設備のおかげだったのです。暖房しているときは暖かくとも停電時にはその家に暮らす家族を寒さから守るだけの性能がないことがわかりました。

しかし、当社で家づくりをしたお客様は凍える様な思いをしていませんでした。
それは、私の高断熱住宅は、暖房を止めても急激に室温が下がらないからです。
寒い時に暖房を止めても急激に室温が下がらない高断熱住宅は、停電前まで暖房をしていた熱が家の中全体に残っていてそれを保温するので寒さに凍える事無く過ごす事が出来ました。
近所の人や近くに住む親・兄弟が暖を取るための避難場所にもなったのですが、今度はその人たちの体温だけでも家が暖かくなったのです。 当時の室温は15℃位でした。

東日本大震災の後に私は確信しました。

高断熱住宅こそが本当の家づくりだということに…。

10. もっともっと高断熱住宅を勉強して、そして精進を

高断熱住宅はどんどん進歩していると思っています。

私の自宅も10年前では最高レベルであった高断熱住宅なのですが、今となってみれば低レベルの高断熱住宅になってしまいました。
今はもっと省エネでもっと快適な高断熱住宅のつくり方ができています。
これから家づくりをお手伝いさせて戴くお客さんには、そんな暖かい家で暮らしていただきたいと思っています。

青森の冬は厳しいです。寒いです。
その青森の冬の厳しい寒さから家族を守ってくれて、豊かな暮らしを支えてくれるのはしっかり造った高断熱住宅です。

私はこれからも青森で暖かい住宅を建てていきます。
お客様から「ありがとう」と言われることを目標に精進しますので、どうぞ宜しくお願い致します。

11. 父母そして家族へ

私がダメ人間でどうしようもなかった時代、両親には本当に悪いことをしました。心配もかけました。今、本当に済まないと思っています。妻にも辛い思いをさせたと思っています。
でももう大丈夫です。そんなことはしません。
私はただひたすらお客さんに喜んで貰える家をつくります。お客さんが喜べば自分もうれしいし社員もうれしい。そんな雰囲気は職人さんや協力業者さんにも伝わり職場はどんどん明るくなっていい仕事ができる。いい仕事からいい家が生まれると思うのです。 だからお客さんに喜ばれる家をつくります。
お客さんに心から喜ばれる高断熱住宅づくり、それが今までの罪滅ぼしで恩返しだと思って頑張ります。

2014.1.1 株式会社 森の風工房 社長 藤本 淳

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